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自己犠牲を自分の中心に置き生きてしまったその2

昨日書いた投稿は、こちら。

自己犠牲を自分の中心に置き生きてしまったその1TwitterXをスクロールしていたら、 お子さんが、不登校になって、 声をかけて来たママ友との 微妙な関係性を見ました。 ...

自分が頑張る事は、当たり前で、
他の人に迷惑をかけては、ならない。
それは、わたしのコンフォートゾーンの時期に、
培ってしまった根深いものがあったのだと、
今、気付きました。

これは、他の投稿と重なるのですが、
自分では、なかなか気付けなかったのです。

他の人に、

「一生懸命やっているね」

こんなふうに声を掛けてもらった時に、
わたしの中では、普通の事だったから

「???」

となっていました。

それでいて、他の人に良く思われていないに決まっている。
だから、働くしかのうがない!

そんな風に思っていました。

だから、
このサークルに入っていた時には、
良く働いていました。

けど、
お姑さんは、農作業をやらなければ、
遊んでいる!!

と言う事が常だったので、

サークルのボランティアをしたりして
疲れていると

「遊んで来たのに、なんてワガママなんだ!」

そんな風にきつい言葉をかけられて、
カチンと来て、
夜中にりんごの荷造りをしたりして来ました。

それでいて、
サークルの事も気になってしまうと、
寝られなくなって、
あーしたらいいかも?
こーしたらいいかも?
ボランティア活動を一生懸命にやっていました。

わたしの中には、
常に、自己犠牲が当たり前にあって、
働き続けると、
感情が吹き出して、
泣いてしまったり、
逆に家族に当たり散らしてしまったりしていました。

1週間に一度、
神社に行く途中に、
父が立ち寄ってくれて、
少しだけ話をすることが、
楽しみでした。

父とは、母のことがあって
一時的にいがみあったけれど、
わたしが結婚する時に、
父は、わたしを手放しました。

「あげてしまったのだから仕方ない」

そんな風に言っていた事がありました。

父は、自分自身の身体を、低周波や長短派を使って治していました。

わたしには、いつも、

「ゆっくりやすめ」

と言ってくれました。

お姑さんが父に

「身体の弱い嫁はいらない。持ち帰ってくれ。」

そんな風に言った事があった事を聞きました。

父は、お金がなくて生活もままならないのに、

「お前が帰ってくるなら、お父さんも考える」

そんな風に言ってくれた時がありました。

離婚したいけれど、自立できないし、
何も出来ないから無理。
このまま、川に飛び込んでしまおうか。

そんな風に考えこんでしまったのも、
この時期でした。

父は、立ち寄った時に、
肩を揉んでくれて、

「首が堅くなると、
感情がどうにも出来なくなるから
気をつけろ。」

「お姑さんも寂しいんだ。優しくしてやってやれ」

そんな風に声をかけてくれていました。

わたしは、いつも自己犠牲になってしまう癖があって、そのことから、更に自分を苦しめてしまうそんな循環をしていました。

けれど、父にアドバイスもらった事を、やってみました。

自己犠牲をするところを、
立ち止まって、休む事を選択しました。

少しずつ
身体が丈夫になって来ました。

ずっと借金の事で父を怨んでしまう気持ちがあったけれど、父が居てくれなかったら、
わたしは、母が亡くなった歳より前に、亡くなってしまっていたかもしれない。

父の存在から、健康に対する知識を、いただきました。

父は、亡くなる少し前に

「お母さんもな…… 」

何か言いたそうな時がありました。

今、思い浮かんだのだけど、

「お母さんも頑張ったから、肩かカチコチだった…… 」

そう言いたかったのかもしれない。

わたしが小学生の時の母は、すごく頑張っていて、いつもひどい肩凝りに悩んでいました。

母の日に、肩たたき券を、作ってあげたら、
喜んでくれたけど、
使ったのは、数回くらいだったんじゃないかな?

母こそ、自己犠牲で生きていた人だった。

わたしのコンフォートゾーンが、
まさにそれだった。