2023年12月15日(金)24日目
りえ先生からのメールの返信が、届いていた。
途中まで打って消えたと思っていたけど、
送信していた事を知る。
りえ先生からのメールを読んで、
自分自身の学びの為の出来事で、
ここで学んだ分だけ、良い事もあると、
希望が持てました。
希望が持てると言うよりは、
わたしが今布団の中に居る状態であるけれど、
元気に動いている未来を描けるような、
空間が広がる感覚を、得ることが出来ました。
りえ先生からいただいたメールの中に、
「サイマティクスは、整形外科的なものは、
めっちゃ早いですから……」
このお言葉から、勇気を得て、
自分自身に何度も繰り返し伝えていました。
改めて、りえ先生にメールを送信しました。
Sさんにメール
わたし
「こんばんは、今日午前中2時間長座位になって、
タイツをはいたり、手仕事をしたりしていました。しかし、午後に腰痛があり、半日寝ていました。寝たきりの期間が長く筋肉痛が半端ないみたいです。でも、股関節が安定した感じがします。
左股関節が心配でしたが、ほぼ心配ないと感じます。左股関節の柔軟性があります。
右股関節と膝の柔軟性がなくて、
靴下をはいたり、脱いだりが大変です。
右足首は、内出血していました。
確か早く治ったのですが、右股関節より右大腿部が痛かった時があった事を、思い出したりしています。
オムツを使用して、おしっこは、自分で出来るようになりました。」
Sさん
「関さんこんばんは。2時間も座っていられたのですね。オムツ使用して自分で出来るようにもなったのですね。毎日進歩があって素晴らしいです。」
わたし
「お尻のお肉がなくなって?長座位になった時、お尻の骨が当たって痛いのです。
いかに、股関節、骨盤まわりに筋肉があったかを感じます。筋トレが大事ですね。
寝た状態から真っ直ぐに起きられません。腹筋もないのです。」
Sさん
「筋肉などは、動かさないと落ちるのは、あっという間ですね。体力の回復と共に、筋トレもしっかり出来るようになりますね。」
この時、右腕がまだ痛くて、右側に置いていた、超短波のつまみを、右手で回す事が出来なかった。
仰向けで寝ると、お尻の骨が当たって痛くて、まっすぐ寝るのがつらいと思った。
けれど、右や左に横向きする事が出来た。
たまには、うつ伏せにも戻ったけれど、
だんだん仰向けに寝るのも、慣れて行ったと思う。この頃は、うつ伏せで寝ていたかもしれない。
動けることの嬉しさが、自分の中に生まれる。
小さな事でも、出来た事が嬉しい。
お姑さんに頼まなくても、オムツを当てて
おしっこをして、オムツを片付ける事が出来た。
その事を、お姑さんに、わたしは、話した。
お姑さんも、わたしを見て嬉しそうに笑った。
わたしが、元気になって来たら、
お姑さんが、疲れている様子がわかるようになって来た。特に、夕食の準備の時、義妹さんが、あらかじめ作ってあるのだけど、心配した義妹さんから、わたしにメールが来て、お姑さんに伝えたりする事があった。
「大丈夫だよ」
とお姑さんは、いつも言っていたけど、
明らかに疲れている。
わたしの為に、2倍動いてくれている。
申し訳なくて、
「ごめんね」
と言うと、
「ごめんねなんて言わなくていい」
と言ってくれた。
わたしは、あたたかい布団の中で、
あたたかな言葉をあびて休める幸せを、
かみしめていた。
わたしの母と、今のわたしの環境は、違うと実感していた。
わたしの母は、みんなから、動くように、働くように毎日声をかけられたけれど、
「もう何も出来なくなっちゃった。ごめんね。」
と繰り返し言って泣いていた。
小さく丸くなって寝ていた母。
どんどん精神がおかしくなっていく姿を、見ていた。
反抗期だったわたしは、母に優しい言葉を、かけてあげられなかった。
それでも、良くなって欲しい。
そんな思いで、新興宗教に入信したのは、15歳の時だったと思い出していた。
母に良くなって欲しいと思っていたけれど、口に出して優しい言葉をかけられなかった。
父も祖母も、いつも厳しい言葉の方が多く、みんなが、母に厳しい言葉をかけていた。
わたしも、みんなと同じように、母に厳しい言葉を言った覚えがある。
母が亡くなったあと、
わたしは、なぜ優しく出来なかったのか?
もう、居ない人を想って悔やんだ。
信仰にすがっていた時期は、そんな想いを内に秘めて、悩んでいた。
お姑さんや、義妹さんにいつも優しい言葉を、かけてもらっていた。
「ごめんね」
と言うと
「ごめんねなんて言わなくていい」
と言ってくれた。
わたしが、関家にお嫁に来れたのは、
反対した人がいなかったから……
結婚する前、わたしは、反対する人がいたら、
結婚しないと決めていた。
父の妹のおばさんも反対しなかった。
だから、わたしは、今ここで寝ていられる。
わたしは、このあたたかな言葉を浴びて、
眠る事が出来ている。
実家の家族や親戚が、悪い人でない事を、
わたしは、知っていたし、母に良くなって欲しいと思ってくれていた。
ただ、自営業を営んでいたので、とても忙しく、
1人具合が悪くなると、他の家族に迷惑がかかっていた。
父は、父の弟さん夫婦と一緒に仕事をしていた。
弟さんの奥さんに負担が大きくなっていた。
父は、弟さんと奥さんに対して、お給料を払えない時もあったようで、いとこも苦労して育って来た。
今でも、いとこは、わたしの父を許していないかもしれない。
母の療養していた環境を、思い出していた。
父の弟さんは、梅の木をたくさん植えてあり、いただいて、わたしは、その梅で、梅漬けを始めて作った。
その梅で、お姑さんが、梅おにぎりを作ってくれていた。
わたしは、ここまで、梅おにぎりを、たくさん食べて、元気になって来たのだった。
それから、お姑さんが作ってくれた、ニンニクが食べきれなかったので、3週間かけて、黒ニンニクを作った。
梯子から落ちる前の日に仕上がった。
義妹さんが、毎日少しずつわたしに分けてくれた。
わたしの環境は、タイミングが最強に良かった。
続く